クジラコンプレックス

 

クジラコンプレックス:捕鯨裁判の勝者はだれか

クジラコンプレックス:捕鯨裁判の勝者はだれか

 

 

私は現在30歳手前。

少し上の世代、いやだいぶ上の世代かもしれない。
学校の給食でクジラの肉が出ていたとか、家庭でも安価なためよくクジラを食べていたとか。

 

捕鯨は日本の文化だとばかり思っていた。
そして少し前話題になった映画「ザ・コーヴ」で捕鯨を批判され、変な違和感を感じた。
しかしそのときは深く調べようとしなかった。
日本の文化であるはずの捕鯨をなぜ部外者であるはずの海外の映画で、それも急に批判されなくてはならないのか。

当時の日本人の平均的な感想で終始し、そしてすぐに忘れていった。

 

この本は2010年におこなわれた、国際司法裁判所において日本が初めて敗訴した捕鯨裁判に関する半ドキュメンタリー本である。

 

最初の章ではいきなり核心に迫る。
日本における捕鯨は日本の文化ではないということ。
実際は文化と呼べるほどの習慣ではない。
鯨漁をやっていたのは一部の地域だけ。そして戦後の一時期に肉が不足していたとき、重要なタンパク源としてにわかに食べられていたこと。
それ以外はあまり接点がなかったという。

この事実は正直、衝撃だ。
捕鯨は昔から続く日本根付いた文化だというのは、ほぼ嘘だったのだ。

 

ではその思い込みは一体どこからきたのか。
ここでの事実はさらに衝撃だった。
捕鯨が日本の伝統文化だという一般認識は広告代理店による壮大な「仕掛け」によるものだったという。
それは日本捕鯨協会の委託によって国際ピーアール株式会社が1974年に始めたプロモーションによる結果だったのだ。
捕鯨を日本文化とするために多方面から様々なプロモーションを行い、それはついに国民が無意識に捕鯨は日本の文化と感じるまでに達した。
戦争における広告の手法は知っていたが、それは一国の文化を作り上げることさえできるようになっている。

何を信じたらいいかもはや分からなくなってくる。
世の中は誰かによって作られた無意識の産物なのかもしれない。

 


第2章からは本書のメインである2010年の国際司法裁判所のドキュメンタリーに入る。
公開されている裁判資料をもとに進んでいくようだが、ここは正直面白くはない。
裁判の議事録を読んでも面白くはないように、面白くはない。

 

最後にまとめとして筆者から提案がなされる。
本来あるべき正当な調査捕鯨のあり方を歪めたのは何か。

それは反捕鯨に対する単純な反発と捕鯨は日本の伝統文化だ、という「クジラコンプレックス」に他ならない。
そして政策決定過程において官僚がほぼ唯一の決定権を持っていることによる、第三者目線の欠如。


そしてそれを解消するために筆者は1つの提案をする。

政府と官僚だけではない民間シンクタンクNGONPOなどの第三者機関を交えた科学技術評価局の設立だ。
民間の視点を排除した官僚中心主義という日本の政策決定におけるあしき慣習が、今回の裁判で露呈してしまった。
その教訓を次にいかすにはその日本の政策決定にはびこる慣習を根本から変えなくてはならない。

捕鯨を例に採れば、反捕鯨に対する感情的な反発に終始することを止め、官僚が決めていた政策をもっと民間シンクタンクNGONPOなどが主体的に提案してゆくべきなのだ。

 

海外にはGreenpeaceやそれこそSea Shepherdなど、政府の意向抜きに国際社会に影響を与え、各国が動向を気にするような怪物級の国際NGOが多く存在する。

日本にもそこまでとは言わないにしても、政府に判断材料を与えるくらいの民間団体が多く存在してもいいのではないだろうか。

餅は餅屋という言葉もある。

政府がやれることにも自ずと限界がある。

民間の知恵を上手く取り入れることができれば、より柔軟な政策を作ることができるように思う。

また日本のNGONPO自身もそのくらい社会に影響力を持つくらいにならなくてはいけない。

政府が看過できないほどの存在になればいいのだ。

政治がダメだ、政治家は自分のことしか考えていないと批判するのなら、民間もそのくらいのことをやらなくちゃいけないのだ。

巨大な数学という生き物

 

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

 

 

当方、中学生くらいの頃からこと数学に関してはからっきしダメで、一応作業的な連立方程式などは楽しくやってた覚えがあるものの、高校からは数学アレルギーにかかり、全くと言っていいほどやってこなかった。

最も数学の世界に関して興味はずっとあり、NHKのわかりやすく映像化された数学に関するドキュメンタリーなどはよく見ていたり、いつかはできるようになりたいとは思っていた。

 

最近改めて数学を勉強し直そうと思っていた矢先、家の平積みされた本の中から面白そうな本があったので読んでみた。

というのも、基本的に僕の本の購入スタイルが、古本屋でまとめて5〜10冊ほど一気に買ってしまうので、読まずにそのまま家で眠っているという本が多い。

 

それはともかく、この「生き抜くための数学入門」はいわゆる数学参考書ではない。

日常に即して理解しやすく数学を学び直すといった趣向でもない。

中学校、高校と数学を先生に言われるがまま、教科書に書いてあるがままに学んできたことってそもそもどういうこと?ってことを分かりやすく解説した内容。

具体的には「円周率とはなにか?3,から始まる理由ってなに?」「四角形の条件って?」「かけ算の筆算はなぜ正しい?」などなど。

学校ではかえって混乱してしまうため、説明は省いてとりあえず暗記させられていた数学の本質とも言える部分にスポットライトを当てている。

内容も中学数学の基本的な計算がわかればスラスラ読める。

 

この本を読むと数学とは決して数学の神様が突然現れ、公式や法則を提示して人間が覚えていったなどというものではなく、人が疑問に思ったことを人が解決するために人が編み出した、すべて必然的な意味のある概念や考え方のことなのだと理解できる。

 

そして同時に数学が多くの人から忌避される理由も分かった。

 

それは数学が現実には存在しない世界の概念を扱う学問であるから。

例えば「無限」の概念や、幅が0である「数直線」の概念。「マイナス」の概念もそうだ。

そういった現実のはない概念を皮膚感覚で扱えるかが数学ができるようになれるかどうかの境であるのだろう。

 

そして本書は最後に今までの根底を覆すような数学の限界も示す。

 じゃあ今まで苦労して理解してきたことはなんだったの、と思うほどに衝撃的なラスト。

 

しかし著者はだからなんだっていうの?と強気に読者に問いかける。

限界があるからやらないの?可能性が有限ならあきらめるの?そんなの関係ない。やるかやらないか。

おもしろいことはやればいい、と。

僕も数学の世界をもっと見たい、知りたい。だから勉強し直そう。そう思いました。

 

数学という、日常生活をしていたらまず見ることはない不思議な世界。

その一端をほんの少し覗いてみたい方は、ぜひご一読をお勧めします。

立場で変わる見え方について

 

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)

 

 

人はそれぞれの立場で物事を捉え、考える。倫理的に考えたらこういった結論が出るというだけだ。一つの問題に絶対的普遍的な答えなど無く、それぞれの答えがまた正しい。立場が変われば見方も変わるのだ。
 
答えが無いから分からない分からないと言っていては人生が終わってしまう。最終的には自分の信ずる答えを信じるしか無いのである。自分が納得でき、信じれる答えを。
それが不幸を生む場合もあるかもしれないが、それはそもそも答えがない限り免れ無い。物事とはそういったものであると思う。もちろん結果的に幸せになるよう努力をしなくてはいけない。
 
しかし最終的には信ずるしかないのである。

歴史のどうしようもなさー「関八州古戦録」

 

関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))

関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))

 

 

歴史とは戦争の歴史である。

人類は常に人を殺し、殺され合ってきた。

そんなこと現代の日本では想像することすら難しいが、平和なんていうのは歴史から見れば異常な状態であるのだ。

 

日本の歴史にはその名の通り戦国時代という時代があった。

日本全土が戦争状態となり、お家の繁栄などやプライドという下らないもののために日々人が殺し合いに明け暮れ、弱いものは殺され、強いものは盛えていった。

関八州古戦録」はそんな戦国時代末期の関東地方60年間に焦点を当てた物語集。

関東地方、しかも60年と、かなり限定されていながら内容はほとんどが戦の話で、胃もたれするほど次から次へと戦の話が繰り返される。

物語の中心は上杉謙信北条氏康武田信玄などで、その他数え切れないほどの弱小大名や武将たちが登場する。

もちろんその中には自らの矜持や慈悲を大切にした者たちの話もあるものの、上の三人を含めほとんどが人を殺すことによる武勇談や栄枯盛衰の物語。

 

何故ここまでして人は争うのであろうか、

そこまでして人を殺さなくてはならないのか、

そのほとんどがお家繁栄や、自身の栄達、武勇を誇示するため。

本当にそんなことが必要だったのであろうか。

 

しかし、どんな時代も現代の常識、倫理観で当時を推し量ることほど見当違いなことはない。

当時はそうしなければ生きられない時代であり、そうすることが当たり前だったのだ。

人を殺すことにより生きる意味、活路を見出し、そうしなければ自分が殺される。

そしてこれは戦国時代に限ったことではない。

歴史上のどの時代も同じであり、そうしなければ生きられなかったのだ。

良い悪いの問題ではなく、そうしなければならなかったのだ。

おそらく僕自身もそうしただろう。

 

人類の歴史はそんな歴史の必然性、どうしようもなさで出来ている。

偽善エコロジー

 

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)

 

 

「レジ袋を使わない」「マイ箸を持つ」「冷房は28℃」「ゴミの分別」

 

どれも聞きなれた言葉。

しかし著者は全て意味がない。むしろ有害だと言う。

 

レジ袋はどんどん貰って使ったほうがいい。

箸もどんどん使ったほうが環境に良い。

冷房28℃なんて全く意味がない。

分別などせず全部一緒に捨てたほうがいい。

 

一瞬「えっ!?」と思う方も多いだろう。

僕も最初はそうだった。しかしそう感じる人は既に環境ファシズムに慣れきってしまっている。

著者は現在行われている環境問題対策、エコというものに対する欺瞞を提唱した第一人者。

 

一見トンデモ本かと思うが、そんなことはなくどれもちゃんとした理屈があり、思い返してみると上記したような環境対策の常識を疑うことなく盲信していた自分に気づく。

 

本書の構成は21項目に渡り今までの環境対策の常識を検証し、最後に著者の環境問題に対する総括的な章が入る。

21項目をバッサバッサと切っていくところは読んでいて気持ちがいい。

そして最後の章は著者の思想がガッツリ出ていて面白い。

 

著者はいわゆる近代合理主義の対極にある循環思想の持ち主。

もったいない精神で、物一つひとつを大切に使うことが大事だと主張する。

当たり前だと思っていることを一度疑い、環境問題は結局心の問題だという。

本書では業者や自治体によるリサイクルを嫌うが、自身による自主的なリサイクルは歓迎。

 

環境問題って難しい。

いま世界では環境問題に真剣に取り組んでいる国はほとんどない。

その理由は主に発展途上国との関係である。国の発展を優先すれば環境はもちろん破壊される。

しかし反対に環境を優先すれば発展途上国の貧しい人たちが犠牲になる。

諸刃の剣であり、日本という先進国であり環境について考える余裕のある我々は、細々した環境対策より、そういったもっと大局的な問題を考えなくてはいけない立場にあるのかもしれない。

イカの哲学

 

イカの哲学 (集英社新書 0430)

イカの哲学 (集英社新書 0430)

 

 

内容はまさにその通りだ。

「実存」「エロティシズム」など哲学的な用語が使われているが、つまりは平和にとって必要なのは他人・他文化などに対し、人がイカに対して接しているように「モノ」として接してはいけないということ。相手も元は同じなんだと認識すること。愛すこと。それが平和にとって最重要なことである、としている。

 

その通りだ。

 

その通りだが、残念ながら理想論の域を抜けることはできないんだよなぁ。

題名が「イカの哲学」だし、その文章自体は大学院の哲学科を出ているから、どうも観念的になってしまうのは仕方ないのだが、現実的な方法論は出てこないし、じゃあどうするの?と思ってしまう。

もちろん主張はまさしくその通りで、そうなってほしいと本気で望む。

だが、現実はそれを模索し、考えに考え抜いた上どうしようもないから、いわば次善の策として現実的な平和論を追求しているのではないだろうか(著者の言うネガティブな平和)。

 

どうもこの本の著者は護憲派のようであるが、護憲派の人たちは憲法9条だとか原爆経験国という武器を大手振ってかざし平和を訴えるが、その主張を聞くたびいつも理想論だなと感じてしまう。

原爆経験国だから一層平和の大切さ、核の危険さを知っている訳でもなかろう。もっと危険で辛い思いをしている国はいまも世界中に存在する。

憲法9条も実質守れていないと言っていい。それは指導者が悪いのではなく、現実的に綺麗事を言っていられないからだ。

マキャベリは「軍事力を持たない国はまず滅びる」と言っているが、その通りで日本が滅びずいま生きながらえているのはアメリカとの同盟と優秀な自衛隊がいるからである。自衛隊が軍隊となりつつあるのは、指導者の軍国主義思想によるものではなく、現実的にそうしなければどうしようもないからだ。

国際社会はリアリズムなのである。

 

大きく主題からずれてしまったが、この本の主張は一読する価値はある。

特に最後のエコロジーの部分は宮崎駿が作った「もののけ姫」の考え方とも軌を一にするように思う。

ただし「思想」としてという制約がついてしまうことは、悲しいことだが仕方がない。

小泉純一郎の「原発ゼロ」

 

小泉純一郎の「原発ゼロ」

小泉純一郎の「原発ゼロ」

 

 

ちょっと古いかもしれないが、一昨年くらいに話題になった小泉元首相による反原発の本。元々僕は小泉フリークなので小泉さんに関する本はとりあえず買ってしまう癖があるのだが、これもブックオフで見つけてそういえばそんなこともあったなぁと思い買ってみた。

 

確か東京都知事選で出馬した細川護煕元首相の応援で小泉元首相が声高々に原発ゼロを主張して話題となった。かつて一斉風靡した小泉元首相の久々のメディア出演+元首相コンビの出馬ということで僕自身もすごく興奮したのを覚えている。浅草での街頭演説も見に行った。僕自身小泉さんの首相時代はまだ小学校高学年〜中学生くらい且つ政治に全然興味がなかったため、この時初めて小泉さんを生で見れたのは、いい思い出だ。

 

そんな小泉元首相の原発ゼロ騒動に関する本。

内容としては、まず第1章は著者による小泉元首相へのインタビューの記録と周りの反応、第2章で史上最大規模を記録したという日本記者クラブでの小泉元首相の演説、第3章では小泉元首相が原発ゼロを主張する根拠となったと思われる恩師・加藤寛慶大教授や石破幹事長、小泉進次郎氏の反応など人物に焦点を当てる。そして最後の第4章では著者が連載している毎日新聞のコラム「風知草」で原発事故直後あたりからの記事を15編載せている。

 

著者は「はじめに」で自身は脱原発論者であり、この出版で脱原発へと状況が傾くことを望んでいるというようなことを書いている。そのため全体的に小泉元首相の主張に肯定的ではあるものの、基本的にはこの小泉元首相による脱原発騒動を淡々と記録した内容である。

別に専門的な用語は出てこないし、何か知識が得られるというわけではない。ただ脱原発騒動を客観的に記したルポルタージュといった感じで、当時の空気や世間の反応を知ることができる。

難しい読み物ではないので、気軽に読める読み物だ。

 

個人的にはさらっと読めたわりには得ることがたくさんあった。オンカロの映画を見ようと思ったし、日本記者クラブの話も面白かった、また小泉氏の政策の支柱は故加藤寛教授なのだと知ることができた。

小泉元首相の独特の言い回しも肌で感じるようだったし、大震災から原発事故というピンチこそなによりのチャンスなんだという演説での言葉は胸に響いた。