希望の国のグランドデザイン

 

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

「今、世界でもっとも注目される日本人科学者が描く希望の国のグランドデザイン。」

 

新進気鋭。これからの時代この人についていけば間違いない。

そう評価され、メディアへの露出も多い落合陽一氏の最新刊。

内容は今までの発言やその他メディアで発信してきたことを一冊にまとめたという感じではあるが、その見識の高さに驚く。

「日本再興戦略」というタイトル通り、これからの日本はどうすれば再び輝けるかという落合氏なりの戦略が書かれているのだが、まず欧米とは何かという問題から始まる。

結果から言えば、現在日本が多く採用している欧米的価値観は日本に合ってなさすぎる。

元々あった日本的価値観をいま、導入すべきというもの。

日本的価値観は4点ある。

地方分権

・コミュニティ中心

カースト的住み分け

・非人間中心主義

江戸幕府はまさに日本人にあった統治方法であり、だからあのような平和な長期政権と成り得た。

 

 

 

そして近年新しいテクノロジーが次々と生まれてきている。

自動運転、自動翻訳、VR、MR、5Gなどなど。

これらはすでに一部では実現しつつあり、特に5Gは今までの世界を過去のものにしてしまうくらい強力なテクノロジーだ。うまく活用することで日本再興の武器となる。

 

 

 

そしてもう一つの切り札がブロックチェーントークンエコノミー。

ブロックチェーンとは分散型の台帳技術で全員でデータを管理するため信頼性が高く、次世代の技術として注目されている。これをあらゆる分野で導入する。そしてそれは非中央集権型(地方分権型)のテクノロジーである。

トークンエコノミーとは仮想通貨と同義と考えてもらって良い。

トークンエコノミーは今までの通貨制度の制約から逃れているため、可能性が無限大であり、うまく使うことで今までと違った形で経済を動かすことが可能になる。

ちなみにあまり知られていないことだが、日本は世界でもっとも仮想通貨に関する法整備が進んだ、仮想通貨先進国だ。コインチェック事件などもあったが、その程度で失速せず仮想通貨先進国であり続けなくてはいけない。仮想通貨は向こう数百年の国力を左右する。ITのようにまたアメリカに持ってかれてしまうことだけは避けたい。

 

 

 

「日本的価値観」と「新たなテクノロジー」この二つをブロックチェーントークンエコノミーといった仕組みで活用することによって日本は再興することができる。

そしていまの日本はタイミング的にも状況的にもそれらを活用するのに最もベストな状態なのである。

後は、日本人自身がそれに気づき、日本をシフトすることができるかにかかっている。

 

安直な中流マスメディアなんかに踊らされてはいけないし、くだらない情報や遊びなんかで未来を見据える眼を曇らせてはいけない。

 

ポテンシャルはすでに持っている。

しかし発揮するには「自覚」と「若干の行動」が不可欠である。

 

 

「指数関数的成長にとって、全ての点は、いつでも始まったばかりだ。」ー 本文「はじめに」より

引きずられない人

 

空海入門 (角川ソフィア文庫)

空海入門 (角川ソフィア文庫)

 

 

”わが国の生んだ最大の思想家、宗教家、そして芸術や文化の発展に大きく貢献した「引きずられない人」空海。その生涯と思想から、大師信仰とは違う「人間」としての空海の魅力に迫る最新の入門書。”(「MARC」データベースより)

 

 

別に仏教じゃなくてもよい。

生きるということは悩みや迷いが多いものである。時にそれは自分一人では抱えきれないものになる。

人というものは何かにすがらなくては生きて行けない。宗教というものはそのために存在している。

仏教、神道儒教キリスト教イスラム教、世の中に宗教というのは沢山あるが、自分が生きて行きやすいのであればどれでも構わない。肝要なのは自分が生きやすいと思った宗教を信仰することだ。それこそが宗教の本来の役割であり、あり方であると思う。

 

一方的な価値観で他の価値観を断定することは危険。もちろん多くの人々をまとめるためにはどれか一つの価値観でまとめなくてはならない。そういった時自分の信仰だけが正しく、他の信仰は悪だと考えることは争いを生み、人を不幸にする。 本来は人を救うための宗教が、その時は悪魔になる。

 

空海はそんな宗教的価値観の対立を乗り越え、一つの結論に達した。

 

空海は香川の豪族の生まれであり、幼い頃から儒教の思想や神道を学んできた。儒教神道の影響は生涯に渡って重要な財産として空海の中に残るが、最終的に選んだのは仏教であった。

空海の人生は悩みの多い人生であった。24歳の頃の著書「三教指帰」はその心情が吐露されている。

そして儒教神道、仏教と学んでいく中で、最終的に自らが救われるのは仏教によってであると発見した。空海は仏教を深く学び、変革していくのだが、空海は何も仏教こそが最上の宗教であると言ってはいない。それは人それぞれ違っていいのだ。

 

ここが空海の真髄である。そして現在の宗教問題を乗り越えることのできるヒントが隠されている。

つまり、「許容」である。

 

これこそが最上の教えであると決めつけてしまうことは他を排することにつながり対立を生むのだ。宗教はもっと自由でいい。個々人がこれがよいと思った教えを信仰すればよいのだ。それこそが宗教の本来の姿であり、空海自身も別に儒教でも神道でもよかった。たまたま空海自身は仏教であっただけなのだ。

 

現実はそう簡単な話ではないかもしれない。しかし空海の悩み抜いた人生から何かしらのヒントは導き出すことができるのではないだろうか。

クジラコンプレックス

 

クジラコンプレックス:捕鯨裁判の勝者はだれか

クジラコンプレックス:捕鯨裁判の勝者はだれか

 

 

私は現在30歳手前。

少し上の世代、いやだいぶ上の世代かもしれない。
学校の給食でクジラの肉が出ていたとか、家庭でも安価なためよくクジラを食べていたとか。

 

捕鯨は日本の文化だとばかり思っていた。
そして少し前話題になった映画「ザ・コーヴ」で捕鯨を批判され、変な違和感を感じた。
しかしそのときは深く調べようとしなかった。
日本の文化であるはずの捕鯨をなぜ部外者であるはずの海外の映画で、それも急に批判されなくてはならないのか。

当時の日本人の平均的な感想で終始し、そしてすぐに忘れていった。

 

この本は2010年におこなわれた、国際司法裁判所において日本が初めて敗訴した捕鯨裁判に関する半ドキュメンタリー本である。

 

最初の章ではいきなり核心に迫る。
日本における捕鯨は日本の文化ではないということ。
実際は文化と呼べるほどの習慣ではない。
鯨漁をやっていたのは一部の地域だけ。そして戦後の一時期に肉が不足していたとき、重要なタンパク源としてにわかに食べられていたこと。
それ以外はあまり接点がなかったという。

この事実は正直、衝撃だ。
捕鯨は昔から続く日本根付いた文化だというのは、ほぼ嘘だったのだ。

 

ではその思い込みは一体どこからきたのか。
ここでの事実はさらに衝撃だった。
捕鯨が日本の伝統文化だという一般認識は広告代理店による壮大な「仕掛け」によるものだったという。
それは日本捕鯨協会の委託によって国際ピーアール株式会社が1974年に始めたプロモーションによる結果だったのだ。
捕鯨を日本文化とするために多方面から様々なプロモーションを行い、それはついに国民が無意識に捕鯨は日本の文化と感じるまでに達した。
戦争における広告の手法は知っていたが、それは一国の文化を作り上げることさえできるようになっている。

何を信じたらいいかもはや分からなくなってくる。
世の中は誰かによって作られた無意識の産物なのかもしれない。

 


第2章からは本書のメインである2010年の国際司法裁判所のドキュメンタリーに入る。
公開されている裁判資料をもとに進んでいくようだが、ここは正直面白くはない。
裁判の議事録を読んでも面白くはないように、面白くはない。

 

最後にまとめとして筆者から提案がなされる。
本来あるべき正当な調査捕鯨のあり方を歪めたのは何か。

それは反捕鯨に対する単純な反発と捕鯨は日本の伝統文化だ、という「クジラコンプレックス」に他ならない。
そして政策決定過程において官僚がほぼ唯一の決定権を持っていることによる、第三者目線の欠如。


そしてそれを解消するために筆者は1つの提案をする。

政府と官僚だけではない民間シンクタンクNGONPOなどの第三者機関を交えた科学技術評価局の設立だ。
民間の視点を排除した官僚中心主義という日本の政策決定におけるあしき慣習が、今回の裁判で露呈してしまった。
その教訓を次にいかすにはその日本の政策決定にはびこる慣習を根本から変えなくてはならない。

捕鯨を例に採れば、反捕鯨に対する感情的な反発に終始することを止め、官僚が決めていた政策をもっと民間シンクタンクNGONPOなどが主体的に提案してゆくべきなのだ。

 

海外にはGreenpeaceやそれこそSea Shepherdなど、政府の意向抜きに国際社会に影響を与え、各国が動向を気にするような怪物級の国際NGOが多く存在する。

日本にもそこまでとは言わないにしても、政府に判断材料を与えるくらいの民間団体が多く存在してもいいのではないだろうか。

餅は餅屋という言葉もある。

政府がやれることにも自ずと限界がある。

民間の知恵を上手く取り入れることができれば、より柔軟な政策を作ることができるように思う。

また日本のNGONPO自身もそのくらい社会に影響力を持つくらいにならなくてはいけない。

政府が看過できないほどの存在になればいいのだ。

政治がダメだ、政治家は自分のことしか考えていないと批判するのなら、民間もそのくらいのことをやらなくちゃいけないのだ。

巨大な数学という生き物

 

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ)

 

 

当方、中学生くらいの頃からこと数学に関してはからっきしダメで、一応作業的な連立方程式などは楽しくやってた覚えがあるものの、高校からは数学アレルギーにかかり、全くと言っていいほどやってこなかった。

最も数学の世界に関して興味はずっとあり、NHKのわかりやすく映像化された数学に関するドキュメンタリーなどはよく見ていたり、いつかはできるようになりたいとは思っていた。

 

最近改めて数学を勉強し直そうと思っていた矢先、家の平積みされた本の中から面白そうな本があったので読んでみた。

というのも、基本的に僕の本の購入スタイルが、古本屋でまとめて5〜10冊ほど一気に買ってしまうので、読まずにそのまま家で眠っているという本が多い。

 

それはともかく、この「生き抜くための数学入門」はいわゆる数学参考書ではない。

日常に即して理解しやすく数学を学び直すといった趣向でもない。

中学校、高校と数学を先生に言われるがまま、教科書に書いてあるがままに学んできたことってそもそもどういうこと?ってことを分かりやすく解説した内容。

具体的には「円周率とはなにか?3,から始まる理由ってなに?」「四角形の条件って?」「かけ算の筆算はなぜ正しい?」などなど。

学校ではかえって混乱してしまうため、説明は省いてとりあえず暗記させられていた数学の本質とも言える部分にスポットライトを当てている。

内容も中学数学の基本的な計算がわかればスラスラ読める。

 

この本を読むと数学とは決して数学の神様が突然現れ、公式や法則を提示して人間が覚えていったなどというものではなく、人が疑問に思ったことを人が解決するために人が編み出した、すべて必然的な意味のある概念や考え方のことなのだと理解できる。

 

そして同時に数学が多くの人から忌避される理由も分かった。

 

それは数学が現実には存在しない世界の概念を扱う学問であるから。

例えば「無限」の概念や、幅が0である「数直線」の概念。「マイナス」の概念もそうだ。

そういった現実のはない概念を皮膚感覚で扱えるかが数学ができるようになれるかどうかの境であるのだろう。

 

そして本書は最後に今までの根底を覆すような数学の限界も示す。

 じゃあ今まで苦労して理解してきたことはなんだったの、と思うほどに衝撃的なラスト。

 

しかし著者はだからなんだっていうの?と強気に読者に問いかける。

限界があるからやらないの?可能性が有限ならあきらめるの?そんなの関係ない。やるかやらないか。

おもしろいことはやればいい、と。

僕も数学の世界をもっと見たい、知りたい。だから勉強し直そう。そう思いました。

 

数学という、日常生活をしていたらまず見ることはない不思議な世界。

その一端をほんの少し覗いてみたい方は、ぜひご一読をお勧めします。

立場で変わる見え方について

 

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)

ビッグクエスチョンズ 倫理 (THE BIG QUESTIONS)

 

 

人はそれぞれの立場で物事を捉え、考える。倫理的に考えたらこういった結論が出るというだけだ。一つの問題に絶対的普遍的な答えなど無く、それぞれの答えがまた正しい。立場が変われば見方も変わるのだ。
 
答えが無いから分からない分からないと言っていては人生が終わってしまう。最終的には自分の信ずる答えを信じるしか無いのである。自分が納得でき、信じれる答えを。
それが不幸を生む場合もあるかもしれないが、それはそもそも答えがない限り免れ無い。物事とはそういったものであると思う。もちろん結果的に幸せになるよう努力をしなくてはいけない。
 
しかし最終的には信ずるしかないのである。

歴史のどうしようもなさー「関八州古戦録」

 

関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))

関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))

 

 

歴史とは戦争の歴史である。

人類は常に人を殺し、殺され合ってきた。

そんなこと現代の日本では想像することすら難しいが、平和なんていうのは歴史から見れば異常な状態であるのだ。

 

日本の歴史にはその名の通り戦国時代という時代があった。

日本全土が戦争状態となり、お家の繁栄などやプライドという下らないもののために日々人が殺し合いに明け暮れ、弱いものは殺され、強いものは盛えていった。

関八州古戦録」はそんな戦国時代末期の関東地方60年間に焦点を当てた物語集。

関東地方、しかも60年と、かなり限定されていながら内容はほとんどが戦の話で、胃もたれするほど次から次へと戦の話が繰り返される。

物語の中心は上杉謙信北条氏康武田信玄などで、その他数え切れないほどの弱小大名や武将たちが登場する。

もちろんその中には自らの矜持や慈悲を大切にした者たちの話もあるものの、上の三人を含めほとんどが人を殺すことによる武勇談や栄枯盛衰の物語。

 

何故ここまでして人は争うのであろうか、

そこまでして人を殺さなくてはならないのか、

そのほとんどがお家繁栄や、自身の栄達、武勇を誇示するため。

本当にそんなことが必要だったのであろうか。

 

しかし、どんな時代も現代の常識、倫理観で当時を推し量ることほど見当違いなことはない。

当時はそうしなければ生きられない時代であり、そうすることが当たり前だったのだ。

人を殺すことにより生きる意味、活路を見出し、そうしなければ自分が殺される。

そしてこれは戦国時代に限ったことではない。

歴史上のどの時代も同じであり、そうしなければ生きられなかったのだ。

良い悪いの問題ではなく、そうしなければならなかったのだ。

おそらく僕自身もそうしただろう。

 

人類の歴史はそんな歴史の必然性、どうしようもなさで出来ている。

偽善エコロジー

 

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)

偽善エコロジー―「環境生活」が地球を破壊する (幻冬舎新書)

 

 

「レジ袋を使わない」「マイ箸を持つ」「冷房は28℃」「ゴミの分別」

 

どれも聞きなれた言葉。

しかし著者は全て意味がない。むしろ有害だと言う。

 

レジ袋はどんどん貰って使ったほうがいい。

箸もどんどん使ったほうが環境に良い。

冷房28℃なんて全く意味がない。

分別などせず全部一緒に捨てたほうがいい。

 

一瞬「えっ!?」と思う方も多いだろう。

僕も最初はそうだった。しかしそう感じる人は既に環境ファシズムに慣れきってしまっている。

著者は現在行われている環境問題対策、エコというものに対する欺瞞を提唱した第一人者。

 

一見トンデモ本かと思うが、そんなことはなくどれもちゃんとした理屈があり、思い返してみると上記したような環境対策の常識を疑うことなく盲信していた自分に気づく。

 

本書の構成は21項目に渡り今までの環境対策の常識を検証し、最後に著者の環境問題に対する総括的な章が入る。

21項目をバッサバッサと切っていくところは読んでいて気持ちがいい。

そして最後の章は著者の思想がガッツリ出ていて面白い。

 

著者はいわゆる近代合理主義の対極にある循環思想の持ち主。

もったいない精神で、物一つひとつを大切に使うことが大事だと主張する。

当たり前だと思っていることを一度疑い、環境問題は結局心の問題だという。

本書では業者や自治体によるリサイクルを嫌うが、自身による自主的なリサイクルは歓迎。

 

環境問題って難しい。

いま世界では環境問題に真剣に取り組んでいる国はほとんどない。

その理由は主に発展途上国との関係である。国の発展を優先すれば環境はもちろん破壊される。

しかし反対に環境を優先すれば発展途上国の貧しい人たちが犠牲になる。

諸刃の剣であり、日本という先進国であり環境について考える余裕のある我々は、細々した環境対策より、そういったもっと大局的な問題を考えなくてはいけない立場にあるのかもしれない。